情報の再利用を前提とした情報保障のあり方を考える

 遅くなってしまいましたが、植村要さんが書かれた「読書環境の利便性向上に向けて」に触発されてのエントリ。
 植村要さんのこの記事では、植村さんが大学院に進学されてから、以下の2つの理由で点訳や音訳よりもテキストデータをスクリーンリーダーで読み上げて読書されていたことが書かれています。

  • 視覚障害者といえど、学会に論文を投稿するときは、PCで墨字で執筆したものを提出する必要があったこと
  • 論文等で引用するためにも正確な文字表記を確認する必要があること

 植村さんのこの記事は、情報の再利用を前提とした情報保障のあり方と、情報保障としてのテキストデータの存在価値を考えさせられました。

大学や大学院に在籍する視覚障害者にとっては、資料は読むことができればいいというのではなく、その資料を使って漢字仮名交じり文で自分が執筆するというところまで考えておかなければなりません。

 論文等の執筆のために原文をそのままの表記で再利用したい、となった場合、墨字資料から一度点訳または音訳したものを、元の墨字の原文に正確に戻すということは、漢字やかなが混じる日本語では特に難しいだろうと考えていました。また、実際にそのような理由でテキストデータがほしいという声を一度ならず伺ったこともあります。植村要さんに改めてこういう形でおまとめていただいて、改めてやはりそうなのかと再認識しました。
 その内容を理解できるまでを目的とする情報保障と、その先の再利用できるところまで見込んだ情報保障、つまり、保障された情報をうけて視覚障害者が情報を発信できるところまでを見込んだ情報保障で、そのあり方は異なるのではないかと感じています。
 これは最近ずっと意識していることです。特に学術文献の対象とした情報保障を考える場合、引用の用途も想定する必要があるため、意識せざる得なくなっています。
 例えば、学術文献にある図について、代替テキストを作成する場合です。その図と同等の説明が本文にあるとして、内容を理解すればよいだけであれば、alt属性は空値でもよいという判断になると思います。しかし、発信することまで考えると、本文の内容を図にした画像がそこにあるという情報も必要ではないか。そうでないと、図を参照できないし、同じ文献を読んだ者同士で話しがかみ合わないことがあり得ます。そうであるならば、代替テキストとして、どのような情報を提供するべきなのか。altテキストの書き方だけ考えても、情報保障の前提次第で異なってくるような気がします。
 内容を理解すれば十分であればわかりやすさ優先で、省略していい情報/追加してよい情報が、情報発信を前提とするならば、省略してはいけない/追加してはいけない情報もでてくるかもしれません。
 また、情報保障としてのテキストデータの存在価値についてです。再利用という点を考慮すると、(どこまで原文に忠実な表記を求めるかによりますが)原文の表記をそのままの形で利用できる点で点訳や音訳にないメリットがテキストデータはあるように思います 1。点字や録音がないからその代わりにということではなく、音訳、点訳に並ぶ情報保障の手段としてのテキストデータ、と考えることで、私の中で腑に落ちつつあります(無論、テキストデータがあれば、音訳、点訳は不要というわけではありません)。
 Webなど情報発信をする視覚障害者も増えています。今後は再発信を前提とした情報保障もニーズも増えていくだろうと思います。テキストデータのニーズはさらに増えていくかもしれません。
 しかし、視覚障害者がテキストデータを扱うには、高度なICTスキルが求められることも事実です。支援技術側の対応がそのハードルを下げるかもしれませんが、視覚障害者がテキストデータを点字や音声と同じように扱えるようになるには、まだ時間を要するかもしれません(若年層はどうなのでしょうか)。テキストデータにはテキストデータにしか担えない役割があるとして、提供する側はなるべくICTスキルを要しない方法に留意しないといけませんが、その時点での支援技術の対応状況と、対象となる層の視覚障害者のICTスキルなどを勘案してどう折り合いをつけていくかは、悩ましいところだと思います。


  1. 誤解のないように書いておくと、私は点訳や音訳の意義を否定するつもりは全くありません。それぞれに負っている役割が異なっていて、代替できない役割があるのだろうと思っています(特に点字については最近の利用率の低さがよく言及されているものの、若年層における教育での点字の果たす重要性は低下していないのではないかと考えています。このあたりは、 視覚障害者の点字の利用率についてでも書きました)。